シェイク・ハシナ
建国の父シェイク・ムジブル・ラーマンの長女として1947年9月28日に誕生。他に4人の兄弟姉妹がいる。
1973年にダッカ大学を卒業。在学中、国立女子大学学生自治会の副会長に選出され、バングラデシュ学生連盟の書記長、会長を務める。
1975年8月15日の夜、父ムジブル・ラーマンとその家族のほとんどは陸軍部隊のクーデターにより殺害されたが、シェイク・ハシナと妹シェイク・レハナの2人だけは当時の西ドイツに在住しており難を逃れた。その後、英国、インドで亡命生活を送り、独裁体制への反対運動に取り組む。
1981年シェイク・ハシナは、アワミ連盟の総裁に満場一致で選出され、6年間の亡命生活にピリオドを打って帰国。1983年にフセイン・モハンマド・エルシャドがクーデターで政権を取り大統領に就くと、アワミ連盟を率いてこの政権への反対運動、民主化運動を展開した。シェイク・ハシナは何度となく收監され、命の危険にも脅かされたが、食べ物、選挙権など人々の基本的権利を満たすため果敢に闘争を続けた。彼女のリーダーシップの下、バングラデシュの人々は民主主義や言論の自由を成し遂げた。
エルシャド大統領の軍事独裁政権が倒れたのち1991年の選挙ではライバル、カレダ・ジア率いるバングラデシュ民族主義党に敗れたが、続く1996年の議会選挙には勝利し首相に就任。2001年の議会選挙では再びカレダ・ジアの民族主義党に敗れて下野したものの、2008年末の議会選挙で勝利して2009年1月に首相に返り咲いた。その後は一貫して首相の任にあり、2018年12月30日の議会選挙でも圧勝して2019年1月7日からは4期目を務めている。この間の2018年、バングラデシュは「後発開発途上国」を卒業して「開発途上国」となった。
夫のワゼド・ミアは世界的に有名な核科学者であったが、2009年5月9日に他界。2人の子供のうち長男のサジーブ・アーメド・ワゼドはICT分野のエキスパートである。長女のサイマ・ホセイン・ワゼドは心理学者であり、自閉症児の障害改善に従事している。7人の孫がいる。